私が出会った数え切れない悲しみと新生への希望・・・・

2.全世界を震撼させた9.11の悲劇。

全世界を震撼させた9.11の悲劇。信じられない光景がテレビに映し出され、身体が震えました。
 映画? 現実?
 時間が経つにつれ、それはテロ行為だったと判明。
 毎日、テレビや新聞、インターネットで事件についての報道を見聞きしていましたが、現地の友人たち(N.Y.在住のアメリカ人、そして、カイロやイエメンで生活している日本人など)から聞いた話とは違っていることがあまりにも多すぎて、あらためて情報社会に対して受け身になっている、その恐ろしさに気がつきました。
 私が経験した阪神大震災の時もそうであったように、現地で起こっている事実とは異なったことがまるで真実のように報道されていたり、あるいは、方々で圧力が働き、都合の悪いことは伝えられなかったり…・・。
 各局が特番を組み、分析や見解を述べていたけれど、どれもアメリカの立場からの報道ばかりで、アフガニスタンからの声は聞こえてこないような気がしました。
 そのうちアメリカ軍の一方的な空爆も始まり、自分の土地を一度も離れたことのないような普通の人々の上にも爆弾が落とされ、多くの人々が傷つきました。もちろん、テロ行為は決して許されることではなく、憎むべきことです。しかし、正義の名の下に、罪も無い人々を攻撃して、その生命を奪ってもいいのでしょうか?報復からは何も生まれない。いかなる政治的、宗教的対立もその無差別殺人を正当化するものではないと、私は思いました。
  いったいアメリカは、そして我々は、なぜこのような悲劇が起こることを防ぐ事ができなかったのでしょうか?
 
 年が明けて、N.Y.のあの場所――グラウンド・ゼロへ。
 もうこんなことは繰り返されてはならない。風化させてはいけないと目に焼きつけました。それと同時に、爆撃を受けているアフガニスタンはいったいどうなっているのだろうと考え始めました。そして一つの考えに辿り着きました。それはアフガニスタンへ行くということ。
 これまで私はプロジュースしているブランドから、N.Y.テロの被害にあった子供たち、そして「アフガニスタン医療支援活動」へのチャリティーを実施していました。しかし、様々な疑問も感じ始めていました。
 現実を知らずして資金だけを送ることだけでいいのだろうか? そこに行って何かできることはないだろうか? 長年、内戦が続き、外国からの侵略を受け続け、国を踏みにじられ続けてきた人々の生活、子供たち、そして女性はどうなっているのだろ?
 現地に行って自分の目で見て、今のアフガニスタンの現状を伝えたい。そうすることがメディアの片隅に身を置く私の義務でもあるかのように思えてなりませんでした。
 アフガニスタンを地図で探しました。同じ地球上でとてつもないことが起こっている。「行ってみたい」「いや、行けっこない」「行けるかも」「行けそうだ」「行かなきゃ」「行こう」・・・・・そんな思いが交錯しました。
 そして思い切って所属事務所に、仕事ではなくアフガニスタンに行ってみたいんですが・・・・・と話してみました。案の定、「援助団体やジャーナリストでなければ入国は難しい国だし、そんな危ない国に行かせるわけにはいかない」と猛反対されました。
 
 今年の3月頃、音楽情報番組で一緒に仕事をしている、日本テレビのFプロデューサー(彼は昨年24時間テレビに関係する仕事もしていました)に、私の気持ちを伝えました。
 今まで、スタッフや友人などにも「危なくてそんなの無茶だよ」と言われ続けていましたから、今回も流されるだろうと思っていたら、「君がそんな思いでいるのなら、きちんと番組にしてみよう。スタッフも集めてみる」ということになりました。
 しばらくしてから、プロデューサーやディレクターの方々から、「君をアフガニスタンに連れて行くことを、局の上層部にはなかなかOKしてもらえなかったが、荒れるかもしれないと予想されていたアフガニスタンでの国民大会議が、民主主義を確立しようといい方向にまとまったという現地からの情報が入ったので、GOできるかもしれない」との朗報をいただきました。そこでもう一度、事務所に私の思いを話し、“少しでも現地の治安が今より悪くなったら中止すること”、“基本的なライフライン(水や食料など)が確保されること”、“もうこれ以上進めないと思ったら、無理をせずに、すぐに帰ってくること”を条件に何とか了解をもらうことができました。
 しかし、最後まで、両親には言えませんでした。日本で待っている間、食事も喉を通らないほど心配させてしまうなら、言わないで行こう。帰ってきたらそのときに全部話そうと(今、思えば本当に親不孝ものです)。
 このようにして、24時間テレビでの初のアフガニスタン・リポートが決定しました。

 アフガニスタン現地の通訳者は日本語があまり話せないので、英語が共通語になるであろうという話を聞いていました。そこで、ひとりの女性を紹介してもらうことにしました。
 彼女の名前はニルファ・コフィ。現在は日本の通訳として働いているアフガニスタン出身の女性。もし、彼女が一緒に行ってくれれば、日本語からダリ語(アフガニスタン語)へダイレクトに通訳してくれるし、こちらの思いも伝わりやすい。アフガニスタンと日本の文化の両方を知っているし、とても力強いので、私は彼女に一緒にアフガニスタンへ行ってもらえないだろうかと頼んでみました。
 すると彼女は、4歳の時に旧ソ連軍が祖国に侵攻してきた際、祖父を殺されたこと、11歳の頃に足を撃ち抜かれたこと、そして旧ソ連軍撤退後の14歳の時、やっとのことで日本に住んでいた父親のもとに逃れてきたこと、だから正直言って行くのは怖いと話してくれました。思い出したくない想いと、もう一度自分の故郷に戻って残してきた親戚に会いたいという想いが交錯しているようでもありました。
 彼女の壮絶な人生に言葉を失う私に、「紀香さんは怖くないんですか? なぜ行こうと思ったんですか?」と彼女はたずねました。私はこの一文の冒頭に書いたような思いと、「何かやれることはないか。現状を伝えるだけでもできないか。今、行かないと私は後悔することになると思う。もちろん怖い。爆弾が夢に出てくるほどに。でも、覚悟はできている」という思いの、そのすべてを告げました。
 1週間後、彼女は連絡をくれました。私は彼女の実家に招待され、返事をもらいました。「私もいつか故郷に帰りたいという想いがあったし、アフガニスタンと日本の架け橋になりたいと思って仕事をしてきたので、私でよければお手伝いさせていただきます」
 と、同行する決意を固めてくれていました。私たちは固い握手を交わしました。

 それから出発までは短期間で準備を進めなければいけませんでした。
 まずは現地の状況に詳しいセーブ・ザ・チルドレン・ジャパン(以下、S.C.J)の方にレクチャーを受けることに。知らないことが多すぎた私に、彼はアフガニスタンの現状や、バーミヤンまでの道のりは本当に辛く、長く、危険だと話してくれました。
 万が一に備えて、必要だと言われたマラリア、破傷風、腸チフス、B型肝炎などの予防接種も済ませました。
 鞄の中身は、通常のロケとはまったく違いました。
 携帯用ポイズンリムーバー(さそりや毒虫がいるため)、コンパス(道に迷い方角がわからなくなった時のため)、猫の砂(お手洗いはないと聞いていたため)、携帯用おしぼり(お風呂がないので身体を拭くため)、インスタント食品類(現地の食べ物は私たちには合わず、お腹を下すため)、携帯用水のろ過器(安全な水の確保)、十徳ナイフ、LEDライト、水筒、各種医薬品(消毒薬、胃薬、抗生物質、等)、防水マッチ、寝袋(バーミヤンにはホテルがないため)などを用意しました。
 同行メンバーは、日本テレビからは前述のプロデューサーと報道部のディレクター、制作プロダクションからはディレクターら3名、技術班からはカメラマン、音声の2名、S.C.Jのメンバー、通訳のニルファ、そして私と女性マネージャーという最小限に抑えた11名のメンバーが決まりました。
 そんな時、“アフガニスタン副大統領暗殺事件”そして“日本人ジャーナリストが取材中、鞭で打たれる”という事件が立て続けに起こったのでした。
 スタッフは毎日、安全の確保ができるかどうか、電話さえよくつながらない現地とギリギリまで連絡を取り合っていました。
 私の心はもう「行く」と決めてはいましたが、「無事に日本に帰って来られるだろうか?」という不安な思いもまた少なからず湧き起っていました。
 女性マネージャーには「今回はついてこなくてもいいから。これは義務ではないし、仕事とは思わないで」と伝えました。彼女には夫がいるし、両親も心配する。何が起きるかわからないし、保障もできないところに連れてゆくわけにはいかなかったのです。しかし、彼女は「私が行かなきゃ誰が紀香さんの背中などを拭くんですか? ずっとお風呂入れないんですよ」と冗談交じりに言うと、真剣な顔で「行かせてください。家族には了解をとりましたし、今のアフガニスタンを私も見たいし、紀香さんの思いをサポートしたいんです」と私に言ってくれました。彼女の言葉が痛いほど嬉しく伝わりました。
 このメンバーで、まず、アラブ首長国連邦(UAE)に向かい、アフガニスタン大使館のあるアブダビで入国に必要なジャーナリストビザを取得しました。その時、待合室のテレビには爆破されたバスの映像が映し出されていました。それはアフガニスタンの現状を伝えるニュースでした。
 不安な気持ちのまま、私たちはドバイ国際空港からカブールへと出発しました・・・・・。

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